かせず、仕方が無いのでベランダの窓を開けて寝付かれないまま本を読んでい
たのです。
音もそれほど気にはならなかったから。ただもう後数時間で夜が明けるという
時刻もあって、赤信号が重なるのか数分に一度ふと静寂が訪れる瞬間があった
のです。
「チリン」という鈴の音が風に乗って聞こえたような気がしたのも、そんなぽっ
かり空いた隙間のような静けさの中でした。
車の音があれば気がつかないようなかすかな音で、風に運ばれてきたどこか遠
くの音のように聞こえました。
最初はどこかの風鈴か何かだろうと思って読みかけの本に目を落としたのです
が、なにか気になってふと静けさが訪れると無意識に耳を澄ますようになって
いました。
すると、やはり気のせいではなく鈴の音が聞こえるのです。
しかもその音がゆっくりと近づいてくるのがわかったときには、ぞわっと背筋
に寒いものが走りました。
というのもこの部屋はマンションの12階なのです。鈴を鳴らしている何かは、
どうやってこちらに近づいているのでしょうか?
実はこのマンション、というかマンション群は郊外のこの辺りでは目立つせい
なのか、は飛び降り自殺が多いので地元では有名でした。
その年もすでに二件飛び降りがあって、一人は住人の中年男性、もう一人は同
じ沿線に住む若い女性だったとか。
そして、年に数回ある飛び降りのほとんどが夜というのも奇妙な感じで、近所
の方とも「やはり昼は下が見えるから怖いのかしら」など話していたのを覚え
ています。
もっとも、それまで霊体験などなかった私は、あまり気持ち良いものではあり
ませんでしたが、それほど深く気にしていたわけではなかったのです。
<続く>
階下の辺りで鳴っているような感じです。
ぞっとしたのですが、どうしても気になってしまいベランダに出てみよう、そ
う決心しました。
ベランダには胸の高さほどの転落防止のための手すりがあるので、下を見るに
はそこから頭を出して覗きこまなければいけないのです。
そのとき、本当に偶然だったのですが、近くの薬局でもらった鏡が目に入りま
した。
安っぽい黄色のプラスチックの枠がついていて、その薬局の名前が入っている
ような手鏡。
後で考えれば田舎の祖母の「鏡にはこの世ならざるものが映るんだよ」という
言葉を覚えていたからかも知れません。
とにかくサンダルを足に引っかけ、その鏡を持ってベランダに出たのです。
相変わらず生ぬるい風が吹いており、手すりが不透明なので見えないのですが
鈴の音はもうほんの足元近くのように聞こえます。私は左手で手すりの上を掴
み、下の様子が映るように鏡を斜めに持った右手を外に向かって伸ばしました。
<続く>
声にならない悲鳴を上げて慌てて家の中に逃げ込みましたが、ガラス戸を閉め
る前に下の方でガシャンという鏡の割れる遠い音が聞こえました。
マンションに住む人ではなくてもご存知でしょうが、この高さから落とせばど
んなものでも凶器となりえます。
ですから本来はすぐ確認すべきなのですが、その時は気が動転してベットの中
で夜が明けるまで震えていたのです。
なぜなら一瞬の間ですが、手すりから突き出した鏡には、暗闇の底から伸びて
いる真っ白な無数の手が映っていたからです…
それ以来、夜になると全ての窓に鍵をかけカーテンを引く生活が続いていますが、
もしあのときに身を乗り出して下を覗いていたら、地面に叩きつけられていた
のは鏡ではなくて私だったのかも知れない、今でもそう思うのです。
<終>
コメントを残す